かさぱのすとちぱの
雑 記(Private log)


家長私的記録、夢中暦200301.22

 ちぱの「旅行記」では書かれそうにない(であろう)「フィンランド模型旅行記」である。戦争博物館の模型展示と、クイヴァライネンのお店への訪問についてまとめる。その前夜には、模型雑誌「PIENOSIMALLI」編集長であるOla Pedersen氏、つまり「ぴえのいす・おじさん」宅も再訪したのだが、このことは追って、「ぴえのいす・おじさん夫妻のこと」に続編として書くことにしよう(おもろい小ネタはあるので、ここでも書くかも知れぬ)。

 ヘルシンキ市内の戦争博物館(Sotamuseo:そたむせお)は例年、年始でも元旦を除いては開館している(しかし系列とは言え、スオメンリンナ島の博物館は冬期は休館)。私は毎回渡芬の際に訪問しているのだが、訪問する度に展示物が増えていたりする(ヴァンターの航空博物館でも同じことが言える)。撮影した写真の一部は追って随時、「実車/実機写真集」でご紹介していくことにするが、今回話題にしたいのはその「模型展示」である。これも増えているのである。
 それはあたかも「フィンランドねたオンリー・モデラーズギャラリー」の様を呈していた。かつてモデルグラフィックス誌に載ったJ.Purhonen氏らの手による作例や、フィンランドものモデラー垂涎の(そもそもまず、完成品など見たことがないキット等の!)作例がずらりと並んでおり、まさかここで、M.Lievonen氏の手による「シュタイア1500A(マンネルヘイム元帥専用車!)」を実際に目にすることが出来るとは思わなかった(仏の模型誌「STEEL MASTER〜vol.37〜」に詳しく掲載されているほか、国際的なミリタリモデリング・サイト「TRACK-LINK」フィンランドものギャラリー内でも見ることが出来る。この作例を参考に、ワタシがまさに作りかけている模型そのものなので感動した!)。

 そのかなりハイレベルな模型製作技術はもちろん、考証の緻密さもまさに「博物館お墨付き」と言えるものではないかと思う。また、それらの展示物が日本の博物館にありがちな「(たいていホコリが積もっている)単なる展示品」ではなく、乾燥防止のために水の入ったグラスを隅に置いた専用のショーケースの中に「貴重な参考資料」として置かれていることも特筆すべきことかと思う。フィンランドねた(特に陸モノ!)モデラーは、ぜひともご覧になる機会があらんことを切に願う。(そんな戦争博物館の模型展示の一部を、簡単にご紹介しておくことにする)

 午後2時ごろから、博物館から私はひとりで「3B(こるめ・べー)」番のトラム(市電)に乗り(博物館までは、カメラの故障・フィルムの消耗に備えて助手=妻を同伴。「興味がない」と言い切る両親とはそれ以前から別行動!!)、クイヴァライネンの店を目指した。店はリンナンマキ遊園地の近くであり、5月にはそのものずばり「LINNANMÄKI」という名の電停で降りたと思ったのだが、この遊園地が冬期の閉園時期だったせいか(というか、夏しか開いていない;)、いつまでたってもその名の電停がやって来ない!! 妻と合流すべく待ち合わせた時間は午後5時だ。もう3時を過ぎている!! すっかり1時間ほど、期せずして「ヘルシンキ市内ぐるり観光」を堪能した後やむを得ず、ヘルシンキ中央駅で降りてタクシーを使うことを決断した。ホテルの電話帳で住所と番地を確認して。。
 メルツェデスのタクシーで模型屋へ乗りつける!なんとリッチ!! 日本では絶対しないであろう都会の冒険だ。いや、ヤ○ザないし殿様モデラーになったようないい気分で、後部座席にふんぞり返ってご満悦だ(とは言え、せいぜいワンメーターが4.?ユーロ(600円程度)と、ほぼ日本と変わらぬ料金。因みに店までは片道9ユーロ(約1125円)だった。。。帰りはもちろん庶民に戻ってトラムを使った。。。)

 お店には5月以来、二度目の訪問である。コワモテの顔に反して非常に物腰のやわらかい(失礼;)、店長のMartti Kuivalainen氏も健在だ。挨拶がてら土産に持って行った日本の模型雑誌を、興味津々に読んでいる(日本語読めないから「見ている」のか;)。その裏表紙の広告にデカデカと載ったタミヤのT-55をシゲシゲ見ている。「このキットはもう見たか??」と聞くと、まだだという。近隣国の模型問屋から仕入れているだろうから、日本での発売日よりも数週間、ないしそれ以上は遅れてしまうのだろう。
 「正確な砲塔のアウトラインだし、パーツもすっごいシャープよ」と説明すると、「ハイハイ、『タミヤ・スタンダード』やね!!」。。。この単語がフィンランドくんだりでも通じてしまう、メーカーの製品クオリティには誠に感心する。 しばしば、「モデラーが本当に欲しがっているアイテムをアイテム化してくれない」・「『再販再販』と、テイのいい値上げしやがる」・「なぜか他社のジェリカンを買わずに済むような形態で、イタレリのキットを再販しやがる」などと揶揄されるも、我々日本人(モデラー)としては、「世界で一番早く、そして一番安くタミヤ製品を買える国に生まれてよかった」と思っておいて損はないだろう(。。うん。「損」ではあるまい)。
 ところでこのお店、なんと一週間に2日しか店を開けないのである(金曜と土曜の午後のみ!!)。国内外への通販をメインにしているのだ(逆にそれが日本以外では当たり前と言えようか)。相変わらず店舗面積からすると、(スケールモデル、しかもミリタリーものしか扱っていない割りに)すごい在庫数だ(1アイテムが山を成しているのではなく、古今東西の渋〜いアイテムが少量づつ集まって山を形成しているのだ)。しかし日本の模型店ではお馴染みの前述「赤青の二つ星マーク」の箱が少ないようだ。在来品のMMシリーズで在庫してあるのは、「III号突撃砲G型」と「T-72M1」ぐらいしかない。。。自国で使った車輌しか人気ないんか!? あとは最近限定再販されたアイテムぐらいなものだ。
 店内には先客が二人ほど居り、店長となにやら話し出した。ワタシはデカールの詰まった箱を漁っていたのだが(この箱の中もフィン空関連のデカールばっかりだ!よっぽどこの国のモデラーは、自国軍の模型を作るのが好きなんだと痛感する。日本での感覚とえらい違いだ)、春の5月の時と大違いで(当時は2時間ほど店内に居て、ワタシ以外のお客はその間1人だけだった!)、入れ替わり立ち替わりお客さんがやって来るではないか!よかったね、マルッティ!ヘルシンキ市内のヘビーユーザーは、この-20度の寒空の中をチャリンコで乗りつけて来るのだ!!(当然完全防寒装備。「プラモ屋に行く途中で凍えて死んだ」とは遺族も説明したくないだろう;)

 小さな店舗に渋〜いスケールモデルが目白押し、気さくで知識豊かな店長が居り、三々五々に来店するお客同士はなぜか顔見知りが多く、常連客があーじゃこーじゃとウンチク垂れている。。。この店の雰囲気はそこはかとなく懐かしい。。。とても外国に居る感覚ではない。。。そうだ。この店の雰囲気は、ウチの近所の模型屋さんと無茶苦茶よく似とる(!!どことは言わんが)。

 ワタシが今度は、「今朝仕入れてきたばっかりですねん」と言いながら店長が奥から出して来てくれた、JSモデル(フィンランド軍車輌アイテムばっかり商品化する、奇特なフィンランドのガレージキットメーカー。品質は初期に比べてケタ違いに向上している)やブロプラン(ポーランドのバキュームキットメーカー。製品はごく当たり前のバキュームフォームの飛行機キットだが、信じられないぐらい売れそうにない珍機ばっかり商品化してくれている)の商品の詰まった箱を漁っていると、飛行機の棚の前で店長と常連客数名がアレコレしゃべっている。フィンランドのモデラーの生の声、フィン語で交わされる会話の内容がわからないのが残念なのだが、耳を突いて:

   A) 「タミヤンどーのこーの、あーたらこーたら」
   B) 「ハセガワンどーしたこーした」
   C) 「なんとかかんとか、タミヤン!」
 一同) 「わははははは(^^)」

。。。などと聞こえる。ワタシの勝手な推測だが、どうやら:

   A) 「新しいタミヤのP-47(サンダーボルト)は、どーよ!?ペラも選べるんやでー」
   B) 「でもまあ、オレ的にはハセガワので十分やな」
   C) 「高いねんもん、タミヤの!」
 一同) 「わははははは(^^)」

。。。どうやらそんな、たわいのない会話らしい。ヲタクってどこでもいっしょやねということに非常なる安心感を覚え、ほくそ笑んだワタシであった。(か)

Aleksis Kiven Katu 58番地。
特に看板はなにも出ていないが営業中だ(週に2日だけね)
(顔はコワイが腰は低い)マルッティと
(顔はアマイが腰は高い)ワタシ。
古今東西有象無象のAFVキット群。
(一連の写真は2002年5月撮影)
飛行機のキット群。自国軍機が充実しているため、自ずと珍しいキット目白押し。
因みにデパートの玩具売場でもRevell社製品が最も幅を利かせてる。



家長私的記録、夢中暦200301.12

 前回の私的記録文中で「日本人旅行客も増えたが、ロシア人旅行客も増えた増えた」と書いたのだが、その理由は単に「クリスマスだから!」というものであるらしい。ちょっと調べてみると、ロシア人のクリスマスというのはなかなかヤヤコシイことになっているのだそうで、「12月25日の(キリスト教で一般的な)クリスマス」、「1月1日の謹賀新年祝い:代用クリスマス(宗教の禁止されたソ連時代に、キリスト教のいわゆるクリスマスの代わりに制定されたらしい)」、「1月7日のロシア正教のクリスマス」と、年末年始は大賑わいらしい。
 そこで、ソ連時代に一般的になった「1月1日の(代用)クリスマス」に合わせて、「地理的にも一番近い、西側のサンタさんの国で忘年会・新年会をしようツアー」が賑わっているらしい(彼の国民に経済的余裕が出てきたことをも暗に示している)。そしてフィンランドの現地ガイド氏曰く、「1月6日(ロシア正教のクリスマスイヴ)まで、この辺で大騒ぎして帰って行く」のだそうだ。ケンカや騒動が増え、「治安がおよろしくない」状態になることがあるので気をつけたいとのことだった。
 ということで、今回はロシア人にまつわる話をちょっとだけ書きたい。なお当サイトと管理人は、極めてフィンランド側に偏った内容/嗜好であるが、その歴史的背景からしてロシア/ロシア人を敵対視/差別するものではない、ということを記しておく。私個人的には「品行およろしくないところが目に付くが、なにかと話題に事欠かない、なかなかオモロイ連中」というぐらいの印象を抱いている(この言い方って差別か??)。

 ロヴァニエミの街でも、サーリセルカの村でも、多くのロシア人団体(多くは家族)を見かけた(もちろん一見しただけではよくわからないが、その会話している言葉でわかる)。
 12月31日大晦日の夜。我々はサーリセルカのホテルで、両親が日本から持参したインスタントそばを食し(皆一応日本人として、「ああ、今年は年越しそばを食べなかったなぁ。。。」と悔やむことは避けたかったのだ;)、夜は「(モーレツに厳しい)カウントダウンイベント」に行った(←後日改めて紹介予定)。
 午前2時ごろには疲れ果ててベッドに入ったのであるが、、、ホテルの廊下の方が騒々しい。男達が数人でわめいている。。。フィンランド語でも英語ではない。ロシア語だ。。。何事かとドアを開けて廊下を見まわしたが人影はない。。。
 。。。同じフロアの棟一つ違いの廊下の奥の部屋で、ロシアの男どもがすっかり出来上がっており、どんちゃん騒ぎをしていたのだった。。。!!
 まぁ新年のお祝いなのだから良しとしようと思ったが、寝ようとしている人間にとってはウルサイことこの上ない(。。しかしながらワタシも酒が飲める体質でしかもその時体力に余裕があれば、「ヤカマシイ!!」と怒鳴り込みながらも、一緒にパーティーに入りたいと思った。。!)。
 「多分これは今ごろ、このフロアの他の客室(特に日本人が多い)からクレームが殺到しているんではないか。ホテル側としても『新年のお祝いですから』ということでムゲに注意することも出来ず、日本の『静かに眠れるお客様』にはお許しを請うばかりなんだろうなー。。」と思いつつ、いつのまにか眠っていた。

 ところで今回の冬の旅の目的のひとつに、「極寒の地に丸坊主で放り出されたソ連兵の気持ちを体感する」というものがあった(!)。冬戦争当時の写真を見ると、ほとんどのソ連兵は丸坊主である。今も昔も、普通は帽子が不可欠な冬の土地である。粗末な防寒帽や、ましてやヘルメット(鉄帽)ではさぞや寒かったことであろう(事実、東部戦線のドイツ兵は、頭に直にヘルメットを被っていたために脳みそが凍って死亡(!)した兵士が多かったと聞いたことがある)。しかしながら今も、ラップランド〜ヘルシンキ間の国内線で乗り合わせるフィンランド兵には丸坊主が多い(新兵だろうか)。大丈夫なのか!?
 そこで今回、約−20℃の北極圏の森の中で、哀れなソ連兵捕虜を実際に捕らえたので、そのバカ写真をお目にかけておきたいと思う。
林の中からソ連兵が投降して来たところ。
収容され、意気消沈のソ連将校の図。


。。。アホである。アホだが貴重な経験だ。極寒の地で丸坊主はいかがなものだったか、その結論を記しておく。
 帽子を被っていなければ、
髪の毛なんて、あっても無くても死ぬほど寒い!

 丸坊主は、頭皮が凍りつくようにピリピリする。頭髪の有無にかかわらず(カツラも役に立たない)、これから冬のフィンランドへ行こうとお考えの方は、くれぐれも帽子をお忘れなきよう申し上げる(実際、冬に帽子を被らずにバイクに乗っていた(トンマな)フィンランド人が死亡した(!)というニュースを聞いたことがある)。
 息をしているだけで鼻毛が凍り、マツゲが凍って一瞬マバタキが出来なくなる(!)という風土である(そんな厳しい自然環境の中でひたすら待ち続けて、ようやく見られるか見られないかというのが、オーロラである)。

 残念ながらその夜はオーロラを見ることはできなかったが、美しい音のない星空を眺め、おバカな写真を撮った夜、ホテルに帰ると玄関に子ども連れのロシア人家族がいた。外で遊んでいる子ども達を母親が呼んでいる。
。。。「ダヴァイ、ダヴァイ!」(=急げ、急げ!)

 。。。小林源文氏の劇画で育った私は、自分が本当に捕虜になってしまったかのような被虐的な妄想が誇張されてしまったのだった(!!)。

 今からおよそ60年前この美しくも厳しい自然環境の国を、帝政ロシア時代以来再び、力づくで手中に収めようとした連邦国家はすでに崩壊、その子孫達がお祭り騒ぎをするためにこの国に遊びに来るようになったのだ。(か)

私的記録補足 夢中暦200301.22

 「遊びに」来るだけではない。「仕事を求めて」来るロシア人も増えているらしい。外国人の就労については、それはそれで国内問題となるのだが(もともと自国民の失業率も決して低くない訳だし)、いちいち「戦争しに」来られた時代があったことを思えば、ようやく互いに平和な関係になれたことを本当にうれしく思う(そんな簡単な、ありていな言い方で言ってしまってはいけない気がするのだが。本当に恥ずかしいことだが、そんな単純な言葉でしか表現できない私である。しかし純粋に事実である。これらサイト上の文章やBBSだけで、私個人の内面や本質を判断できたなどとは達観しないでいただきたい。当たり前だ)。
 なお、私個人的にはロシア人に直接的被害を受けたことがないので、特に差別するものではない(すべきでもない)。憎むべきは「スターリン一党のソ連」ではあると思っている。ただし良かれ悪しかれ少なくとも明らかに「自分とは育った環境がもちろん違うが、ものの捉え方・考え方もまるで違う連中」という、ロシア人への印象は強烈である。
 フィンランドを語る上での「宿敵」ロシアを例えて、「キカイダーを語る上でのハカイダーのようなものだ」という持論は言い得て妙だと思う(決して単純に「悪モノ」という訳ではないということだ。ある種の「魅力」を見出していなければ、わざわざ「坊主頭で雪中に放り出されたロシア兵の悲痛な気持ちに少しでも触れたい」などという考えは出まい(!))。(か)

家長私的記録、夢中暦200301.10

 (まったく遅れ馳せながら)謹賀新年、Hyvää Uutta Vuotta。
 1月5日昼にフィンランドより帰宅、すぐ明くる日が仕事始めで「通常空間」に戻りつつも、けだるい疲労感が否めない他、年賀状がまだ書けていないやら。。。(!!)

 さて前回(去年末)の雑記にて触れた通り、年末年始の休暇をめいっぱい使ってまた渡芬してきたので、これからしばらくは当コーナーで土産話をちょっとづつ書いていきたいと思う。なお、今回の渡芬スケジュールとコースは次のようなものであった:

12/29 成田発。
       ヘルシンキにて国内線乗継(合間に航空博物館)、ロヴァニエミ入り。
  /30 サンタクロース村観光後、サーリセルカ入り
       (いきなりオーロラ出現。りんなちゃんと現地オフ)。
  /31 終日サーリセルカ
       (猛烈な年越し体験)。
01/01 終日サーリセルカ
       (犬ゾリを堪能。野生に帰る)。
  /02 午後ヘルシンキ入り
       (ぴえのいす・おじさん宅再訪)
  /03 終日ヘルシンキ。
       (戦争博物館、模型屋と本屋、市内観光三昧)
  /04 ヘルシンキ発(機中からオーロラ目視)。

 。。。というようなコースを、ワタシ(渡芬6回目)と細君(7回目)、私の両親(2回目)と従姉妹(初)、計5人で行って来たワケであるが、今回は(渡芬初期や結婚式でお世話になっている)フィンツアー(潟tィンコーポレーション)にチケットやその他アテンドを依頼したので(サーリセルカには駐在所「ノルディックジャパン」を持っている)、「ジャーニー」「トレック」というよりは「ツアー」であった。フィンツアーは北欧を専門的に扱う旅行社であり、その低価格なツアーで人気上昇中なのだが、価格が安いそのワケは、「飛行機とホテルの手配はお任せ頂くが、あとは基本的に勝手にしなはれ!」な内容だからであり、決して添乗員が常に同行して旗を振りながら「右が〇〇左が××でございまーす!」とやるツアーではないからである(ワタシ達夫婦はそれが良い、いやそうでなくてはイヤなのだが、このことが後日、渡芬経験も浅く言語も解らない両親にとっては問題になってくる。。。!)。

 まず最初に特筆すべきは、冬のオーロラ・オンシーズンということでもあり、渡芬する日本人旅行客が増えたこと増えたこと! 旅行代理店大手のJ〇Bや近〇日本ツーリストなども「神秘のロマン!極北の地にオーロラを求めて!!」みたいなタイトルのツアーを商品化しているためもあり、かなり盛況な模様である(「オーロラが美しい!」ということだけでなく、「ごっつい過酷な環境!」ということも大きな文字で書いておいていただきたいものだ)。ちょうど7年前の、ワタシ達が初めて訪れた時のサーリセルカSaariselkäという北極圏の町(村)では、まだまだ日本人は少なく、当時ツアーで同行した日本人は20人程度だった(内、ワタシと共に熱心にオーロラを観察していたメンツは8人。。。内一人は後の妻となる)。ところが今回2002年末に至り、その数は激増、ワタシ達の直前に訪れていた団体では80人(1回のツアーで!)という規模になっていた。日本人が増えただけではない。初期には外国人と言えばドイツ人ばっかりという印象だったのだが、ロシア人旅行客も増えた増えた!(。。。このことに関してはまた後日改めて書きたいことがある(!))。
 日本人旅行客がそれだけ増えたということは、とりもなおさず「日本方式のサービスや内容を(当然のこととして)求める観光客」が増えたことをも意味する。この極北の町(村)のホテルやスーパーマーケットも(毎回、訪れる度に)増改築されているが、日本やアメリカの「いたれりつくせりのサービス業」の全体としてのシステムはまだまだ未発達である(ワタシ達夫婦は、それが良いと思うのだが)。彼らなりのペースで発展していっているとも言える。このことを踏まえた上で旅行しないと、「アレがなっていない、コレがなっていない、マイナス28度ー!?オーロラはいつ見られるんだー!飛行機にはナチスのマークが付いてるぞー!(←これはちょっと違う)」というクレーム/いちゃもんが口を突いて出て来るであろう(ワタシの両親のように!)。
 例えば、オーロラが出現しなかったとしても、日本ではもう見られなくなってしまった「音のない星空」などに感動できる気持ちが欲しいものだと思う(いや、旅行会社の立場を弁護をしているワケでは決してない。プレアデス星団(すばる)の星々をいくつ数えたことがあるか?と、「オーロラばっかり」の日本人に聞きたい)。

 今回の旅は総じて、そうした「サービス業先進国からの観光客の在りかた」「文明先進国の人間の問題点」「ちょっとオカシイんじゃないか、ヤパニライネン!?」といったことをつくづく考えさせられた(事実、両親とは毎晩のように「日本・アメリカ方式のサービス業/文化をフィンランドに持ち込むことの是非」について激論を交わしたのだった。久しぶりに激しい親子ゲンカもしたが、結果的には喜怒哀楽の激しい有意義な旅になったのではないかと思っている)。
 ちぱが後日、また「旅行記」を編んでくれる予定であるが、次回より当コーナーでワタシなりの「土産話」を、少しづつ具体的にご紹介していきたいと思う。(か)


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