ヴァーチャル・タリン(2002年5月6日:その2)
Talinn,Eesti :2

・海事博物館前:
 「太っちょマルガリータ(現在中身は海事博物館)」の入口にひとつの記念碑がある。 碑文をよく見ると、「バルト地方の自由のために命を奉げた英国海軍のクルー」に奉げられたものであることがわかる。 エストニアで、なぜイギリス海軍なのか?
 実はエストニア独立戦争のおりイギリスは、独立派を支援するために12隻から成る艦隊を派遣し武器・弾薬を提供したほか、フィンランド湾内に留まりソ連海軍の攻撃を牽制していたというのです(それ故にかつてのソ連の歴史書では、「西側列強の介入を受けた資本家のブルジョアどもが、我らエストニアの同志労働者の革命決起に対し・・・」というような書き方になっていたらしい)。


(博物館自体は休館でした。ゴールデン・ウィークなのに!(←そりゃ、しょーがない(~ヘ~)))

・我が家とロシア連邦首脳部との深い関係:

タリンでばったり。 ウチの嫁さんは実は、
     ミハイル・ゴルバチョフと     
つーかーの仲である!

こんなにゴルビーと仲の良い妻であるが、
隣のゲルハルト・シュレーダーさんのことは、
「知らん」のだそうだ(!)。

タリンでまたばったり。 ウチの旦那は実は、
ヴラジミール・プーチンと
何やら恐るべき
陰謀を企んでいる!

 ・・・実は「エストニア歴史博物館(Eesti Ajaloomuuseum)」に展示されていた蝋人形(誰が良いヤツ/悪いヤツとかいう問題はさておいて、主にヨーロッパの歴史的人物が20体余り。似てる/似てないという点も気になるが、中には「そもそも、だれ??」という人物も多い)。
 因みにこの博物館では、エストニアの歴史と文化を一望のもとにすることができる・・・と言いたいところだが、エストニア独自の歴史遺産の数も限られており(恐らくソ連時代に失われてしまったのであろう)、ぶっちゃけ「個人経営の私設博物館」といった趣。 故に「(特にその入館料に比較して)しょぼい」印象は否めない。
 しかしながら、「ここに残っているもの以外は失われてしまった」という裏の意味で解釈すれば、現在に至るエストニアという国の歴史や文化を、(まさに)身をもって感じることが出来よう。
・セーター街:
 「センター街」ではない。 タリンの街を紹介する観光ガイドブックには必ず載っている、その名の通り、セーター(実はエストニアの名産品)などの衣類を売る商店が軒を連ねる、有名なショッピング・ストリートである。 土産物店も集中している。

 エストニア語以外にはロシア語しか解せない(「取り残された」感のある)ロシア人の店も多く、しかも同じ商品でも店によって値段がマチマチなので、よーーく吟味してからお買い物していただきたい(同時に、フィンランドよりも遥かに物価が安いことに気付かれるだろう。フィンランド人がエストニアに(特に酒を!)買い物に来るワケがよくわかる)。

(関係ないが、これらロシア人の姿がワタシにはどうしても、スタトレDS9のガラックさんの姿とダブる! 顔は笑っているがなんとなく胡散臭い、しかし、「言うに言えない過去を背負って生きている」あの感じが嫌いになれない)

 なんということはない、住宅地のアパートの並びである。 こんな写真を撮って何の意味があるのかとお思いだろうが、よく見ていただきたい。

 「駐車場にボロボロで暗い色の東欧製の車がない」ということ以外に、手前から3つ目のアパートの屋上に白い小さな円盤が2つほど見える。 衛星放送のパラボラ・アンテナだ。 こんなモノはソ連時代の民間人にはスパイ行為のかどで逮捕されていたことだろう。
 今は誰でも(契約・加入さえすれば)、安心して好きな番組を見ることができる。 エストニアがそんな時代へと移り変わったことが嬉しくて(特に共産主義や全体主義体制の中では、決して生きていけそうにないワタシとしては!)、思わず写真に撮ったのである。

 まさに中世そのままの如く、街じゅうが石畳である。 しかも前頁で述べた通り、路地が多い。 短い北欧の春のこの日はピーカンで、歩いていると汗ばむぐらいだった。
 旅行カバンやスーツケースをガラゴロと牽くのはツライ(なによりヤカマシイ!)ので、身軽なスタイルで歩こう。

 アスファルトで舗装された車道も、もちろんある。
 基本的にどこの国に行っても同じ、或いは容易に察しがつく道路標識が多いが、青地に赤い×印は駐車禁止のサインだろう。 その下には「停めたそばからレッカー移動するぞーゴルァ!」みたいな警告(!?)もある。

 車道を挟んで向こう側にはこの標識がないので、ここぞとばかりに縦列駐車しているのがオカシイ(~~;)

・タリンのマクド:
 Mドナルドや東京M菱銀行の真っ赤な看板が、京都市内(の景観保護指定地域)では、その配色に変更が加えられているのはご存知の方も多いだろう。
 町全体が世界遺産に登録されたここにも、同じような規制があるようだ。

 ただしこの街の場合、「派手な赤い部分を渋い色に変えてください」というのではなく、「そもそも赤い部分なんか取っ払え!」というのである(~~) (・・・ひょっとしたら、「(言うまでもない理由で)大きな赤い旗や看板が忌み嫌われているからかも)
 それが法で規制されているからなのかどうかは不明ながら、ここまで景観にマッチした徹底的なマクドは、京都でも奈良でも見たことがない!

・エストニアに翻る日の丸:
 主にヨーロッパ各国から多くの観光客が訪れているエストニアであるが、同国を訪れる日本人の数といえば、年間でも200人ほどなのだそうだ。 街ですれ違かった多くの観光客の中でも、日本人(もしくはアジア系)とすれ違うことはなかった。

 そんな国で日の丸を見ることが出来ると、やはりこれは嬉しい。
 そしてもしも万が一のことが起きたら、ここへ駆け込むべし。 在エストニア日本大使館。 1993年に、バルト3国の中では最も早く設置された日本大使館だそうだ。

・本当の加害者は、誰?:
 たまたま通りがかった街の一画。 土は掘り返され瓦礫が散乱しており、(この街のあちこちで目にする)工事現場か発掘調査の現場かと思ったら、何やらロシア語と英語で書かれた大きな看板が出ている。:

タリンは1944年3月9日の夕刻と深夜、ソビエト空軍により爆撃を受けた。
住宅域の53%が破壊され約2万人が家を失い、463人が命を奪われ、659人が負傷した。


 ワタシは複雑な気持ちになった。 実際問題として、第二次大戦(前後)でエストニアの国土は確かにソ連にも踏みにじられたが、そのソ連軍を蹴散らすためのドイツ軍による蹂躙と占領もあったのである(そしてさらにそのドイツ軍を蹴散らすためのソ連軍による進撃があり・・・)。 「ドイツにもソ連にも爆撃されたが、ここに限って言えばソ連軍による爆撃で・・・」という書き方ではない。 「ソビエト空軍」と言い切っているのである。
 古来より周辺諸国の支配(デンマーク・ドイツ・ロシア・スウェーデン・ポーランドのせめぎあい)に翻弄されたエストニア人が今に伝える「敵」は、結局・・・ソ連か。 エストニア国民に残された最後の武器は、(今は亡き)ソ連に対する憎しみである、などとして煽るわけでは決してないが、ワタシはこの惨劇の跡と看板を前に、なんとも言えず胸が痛くなった。


あ、ゴメ〜ン! もっとエストニアについて、「なんじゃこりゃ」「バカ写真満載!」みたいなノリで行こうと思ってたんですが、この国を歩いてるとどうしても、過去から現在に至る「暗い・重い・哀しい」部分が目に付いてしまうのです。 しかしそれと同時に、暗い過去から現在に至る「明るい・ポップな・嬉しい」部分も混在していることも確かです(それはそれで、急激な西欧化による歪みや摩擦が現実に生じているが)。 エストニアに興味をお持ちの方は、ぜひ実際に現地を訪ねて、その「感じ」を感じて欲しいと思います。
(フィンランド語がわからなくても英語が通じるフィンランドと違って、エストニア語がわからくてもロシア語かフィンランド語が通じます・・・ってトコロが、エストニアが日本人の観光に、いまいちメジャーになれない部分かも(~~;))

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