ヴァーチャル・タリン(2002年5月6日:その1)
Talinn,Eesti :1

以下は2002年春のタリン訪問の際の一部。 「(ちぱの)旅行記:2002年5月6日」もご参照いただいた上でご覧頂きたきたく思います。

・タリンへの渡航:
 タリンの船着場。 ウォータージェットのフェリーでヘルシンキのマーケット広場の港から、約1時間半でタリンに到着だ。
 ヘルシンキとタリンを往復するにはヘリコプター(ホップライトやヒップだったら乗ろうと思っていたが・・・あいにくソ連製ヘリコではなく個人的には、残念!)もあり、15〜20分で到着する代わりに・・・・・フェリーの5倍ほど高い!(--;)

 我々がエストニアへの渡航にこの「リンダ・ラインLinda Line」を選んだのも、いくつかあるヘルシンキ〜タリン間のフェリーの中でも比較的安かったからである。(2002年春の時点で往復30ユーロ(片道だと20ユーロ)でした。公式サイト()によると、2005年現在は往復で34ユーロ(片道だと22ユーロ)。乗り場もマーケット広場のそばなので便利)。

 フェリーの客室内。

 ミニ・バーや売店もある。 エストニア製・フィンランド製をはじめとしてヨーロッパ各国製のお菓子やお飲み物が充実。 ロシア製の菓子も置いているが、よほど味に問題があるのか他に問題があるのか(!)、比較的少ない。
 テレビで放映していたのは、フィンランド語吹き替え(!?)の「デジモン・アドベンチャー」(ひぇ〜〜〜)。
 客室のシートは、アエロフロートあたりの払い下げ(・・・たぶん)。
 ・・・というのも、

「客室乗務員呼び出しボタン」
(→スッチーの絵が書いてあるあのボタン。どうも電気が通っていない。
  もっともたかだか90分の航海に特にサービスが付くわけもなく、意味なし)
「イヤホンのコンセント」
(→観光案内や非常時の注意事項などが聞けたのだろうか。
  仮にきちんと作動していてもイヤホンが支給されていないので、意味なし)

・・・といったものが(そのまま)付いていたからである。
 しかも我々の席の隣を見ると、その席の背もたれと座席の接合部分は、大きくヒビ割れていた(思わずワタシはシートベルトをしっかり締め直した!)。 そこにフィンランド人観光客(かなりの巨漢)が座ったとたん、後へ大きくリクライニング!(つまり、さらにヒビ割れが大きくなり、レバーを押さずとも「一段階倒れた」のである・・・!)
でもエンジン(だけ)
メルツェデスだゼ!

 (↑そこは自慢したいらしい)
型は古いがシケには強い♪
 ・・・ってなもんか!?


 ※:リンダ・ラインの公式サイト:http://www.lindaline.ee

・街の全体像:
 タリンの街の案内板。 観光の目玉たる「旧市街」は城壁に囲まれた「城砦都市」となっている。 13世紀頃の、ドイツ騎士団とデンマーク王国がこの辺りをせめぎあっていた頃に築かれたものだ。 これが「タリンTalinn」が「デンマーク人の城」という意味である由来である。

 旧市街はブラブラ歩いて見て廻れる、比較的小さな街なんである。

・とりあえず、そぞろに歩いてみよう:
 港で入国審査を終えて、いよいよタリンの旧市街に入る。 道路を走る自動車の数は、予想していたよりも多くてカラフルだ。 そしてそのほとんどが西側のメーカーの車である。 そんな中に、(日本では決して見られない)使い込まれたソ連製のトラックなどが混じっている様子を見てはじめて、自分が旧共産圏に立っているのだということを実感できる。

 また(日本やフィンランドからやって来ると特に)現在のエストニアが、「中世の風景」「自由主義社会になってからの変貌」「共産主義体制の名残」が渾然一体となっていることに気付かれるだろう。 ちょっと異様な印象さえ受ける。

 街の入口のひとつになっている「太っちょマルガリータ」。 古来この街のランドマークたる主な建築物や通りの名前には、親しみやすい(よく考えるとおかしな)ニックネームが付けられている(「薬局通り」であるとか、「短足の塔」であるとか、「『台所を覗け』の塔であるとか(~~))。

 旧市庁舎前広場(ラエコヤ広場)を広角レンズで。 正面に見えるのが旧市庁舎である。
 因みにこの旧庁舎の屋根から突き出した塔には、「トーマスじいさん」という名がある(誰??)。

 ロシア正教のアレクサンドル・ネフスキー教会。 中に入るとミサの最中だったが、今までに経験した教会(エストニアもフィンランドも、ルター派プロテスタント系が多い)とは違い、ある種、異様な雰囲気を禁じえなかった。

 ・・・というのも、信者達が我々を、「なんじゃこの黄色い猿は?信者でもねーくせにヨ」的な視線でジロリと見たからである! (因みに教会内での写真撮影は禁止されています)

 ロシア正教以外の教会もいくつか在る。 しかもそれらもまた非常に古くからの建築物である。
 教会というものはソ連時代にすべて取り壊されたんではないかと思っていたが(廃仏毀釈どころか廃宗教毀釈で)、意外に多くが残っている(単に「教会としての使用は許されていなかった」だけのかも知れない)。

 この石畳の街には路地が多く、しかもそれが入り組んでいる(城下町・・・というか「城内町」だからか)。

(実はこの写真の通りを歩くとき、ワタシは常に用心深く、出来る限り道の中央を歩いた。ふいに腕を掴まれ路地に引き込むギャングの姿を妄想したからである(!)。しかし世界遺産に登録されたこの街でそんなことはなく、基本的に治安は良いと言えるだろう。しかし旧市街の外はその限りでないと思っておいた方が無難だろう)

 丘の上の公園(「塔達の公園」と呼ばれる公園付近)から町並みを見る。 実に美しい、中世そのままの町並みである。 戦火の後に復元/復興した建造物も多いだろうに、我々がよく目にするテーマ・パークとは大違いで、「わざとらしさ」「あざとさ」がまったく感じられない。

 しかし今も街のそこかしこで、中世の街にマッチした近代化工事(上下水道や増改築)が行なわれているのが目に付いた。 「世界遺産の中に住む」のも大変である(商売人だけではなく、「一般住民」が居るのである。言うなれば「エストニアの首都は飛騨白川郷」といったところか(!))。

 ユニークでアーティスティックな「エストニア建築」というものに感心しながら歩いていたのだが、これは有名な「3人の姉妹」(「3人の兄弟」というのもある)。

 食べに入ったわけではないが、レストラン「ADMIRAL(提督)」の前に駐車してあった・・・なんだコレ??・・・古いフォードのナントカ・・・いや、GAZ M20 "Pobeda"の初期型じゃないのか!?(詳しい方は識別してください)

 こんなクルマで仕出しに来られた日にゃ、ワタシなんざそれだけでウハウハである!(~o~)(M20「ポベーダ(勝利)」は1948年から55年にかけてGAZで生産された、今では貴重な乗用車である)

 1991年の再独立時には、進撃してくる(であろうと予想された)ソ連戦車を阻止するために、道路上にバリケードとして巨石が置かれたという。 この石がその時のもののひとつなのかどうかわからないが、独立を記念したオブジェとなっている。

・一番あたりまえのようでありまがら、一番うれしい風景:
 トームペア城(エカテリーナ2世の命により建立されたという。今は国会と政府の庁舎である。ピンク色の国会議事堂って・・・(~~))の屋根にはためく、青・白・黒のエストニア国旗。

 ソ連時代には、この旗を振ることさえクレムリンに禁止されていたのである。

ぜひpart.2も、ご覧頂きたい

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