BT-42突撃砲(の砲塔)を思ふ

「BT-42の砲塔は、本当にBT-7のそれを改造したモノなのか・・・??」
そんな(人生の意味においてまったくどーでもよい)疑惑を抱いてしまったワタシは、
フィールド・ワークが要と(!)、事実確認のために(確認っちゅうところが肝!)、
世界で唯一BT-42が現存する場所:パロラの戦車博物館に(再三と)飛んだ。
↑お馴染み(?)、フィンランドが独自に無理クリ必死に作り上げた
自走砲(フィンランドでは「突撃砲」に分類)「BT-42」が、これである。

洋の東西を問わずこれまでの解説では、(車体は言うまでもなく)
「ソ連軍から捕獲したBT-7の砲塔を改造(ツギハギ増改築)して作られた」
・・・とされている。
 今まで、そうした記述の解説・資料でこの車両の存在と経緯を学ばせてもらったし、
別に異論を感じたわけでもなかった。

 しかしパロラに二度三度と通ううち、
(「モノ凄いカタチしてるよな!」という印象もさることながら)
「・・・こんなモン、BTの砲塔を切った貼ったするよりも、
一から作った方が早いんちゃうのん!?」
 ・・・という印象を受けた。
 戦時中に撮影された同車の写真をとくと眺めていても、
 模型(インジェクションキットまで発売されてしまって!)を眺めていても、
その印象はますます強まるばかりだった。



 決して格好の良い戦車ではないし(!)、実戦においても役に立ったとは言えない自走砲なのだが(敵戦車が現れるとわかっている戦闘や市街戦のど真ん中に投入されたことが、そもそも間違いだったんである!)、フィンランドが国家存亡に関わる危急の際、必死の防戦のために必死で産み出したこの車両を思うとき、涙なしには語ることが出来ようか、いや出来ない。
 古来ガレージキットの恰好のアイテムとしても愛され(?)、最近では遂にインジェクションキットまで発売になった(しかもそれがロシアのメーカーから!参照(模型のレビュー))。

 背面からその砲塔の後姿だけ見ると、BT-7の砲塔が元ネタになっているようには見えない。 砲塔後部はすべて新造された区画だからだ。
 「国家存亡に関わる危急の際」だったからこそ、捕獲した戦車の車体そのものと、その砲塔旋回機構とターレットリングを労することなく活用したかったのだろう、と考えて不思議ではないだろう(特に重工業が発展途上な当時の彼の国において)。

 なお砲塔天板の楕円形ハッチは、明らかにBT-7から流用したものである。(しかし砲塔のどこにも、ベンチレータと思しきモノが見当たらない。 射撃中の本車の写真のどれを見ても、大きな後部ドアが開け放たれている・・・ってことは!?・・・・・ゲホゲホ。考えただけでもムセ返る)

 さて、BT-7戦車の砲塔(1937年から生産され始めた傾斜型砲塔)を改造したものであることが確認できるとすればそれは、円錐状に切り立った砲塔前面の傾斜部分と、砲塔基部周囲である。  そこでまず、砲盾とその基部周辺を見てみた。 この辺りはすべてフィンランド軍が独自にこしらえた部分である。

 この写真では飛んでしまっているが(説明のために赤い線でなぞっておいた)、オリジナルのBT-7の傾斜部と同じ位置(砲盾固定のためのボルト位置)にある、3つの尖塔型ボルト(これもBT-7の流用か。けっこうデカくてゴツいのが印象的。ザクの左肩みたい!)の上に、明らかな溶接線がある。 円弧に合わせて継ぎ足されたのである。

 継ぎ足された・・・何が?
 もちろん、オリジナルの上に新たな構造物が、である(この新造構造物は20mmの装甲板の箱組み。オリジナルのBT-7よりも厚い!・・・というこのイメージが、「戦車と撃ち合えるだろ!」という過信に繋がったのだろうか)。
 本車によじ登り、砲塔底部からこの溶接線までの高さを測っておくことができれば、あるいは半開きの天板のハッチから内部に潜入できれば(!)、更に論証できる要素となっただろうにと悔やまれる(~~;)。
(写真をクリックすると拡大画面が飛び出します)
 因みに画面右端に見える平たい大きな円錐は、ピストルポートの栓である。 更にその右端にある小さな尖塔ボルト(溶接してある)は一体??(往時の写真を見るとこの小さなボルトは、車輛によって有無があり、しかもその位置が思いっきり違っていたりする。謎は謎を呼び、次から次へと出て来るものだ!)


 さて、「『A』」と『A’』が合同か否か」を検証するとき、数値化して見るのが確実であり、しかも解りやすい。
 オリジナルのBT-7の砲塔と比較するために必要な数値として、手元の資料では「砲塔前部から側面にかけての傾斜角度(車体上部天板からの垂直線に対して12度)」しか得られなかったのだが(→資料1)、あいにくそれを計測するための道具(角度計やクリノメータ)を持ち合わせていない。 砲塔周囲の円周数値もわからない。

 しかし幸いにも、ミリタリーモデラーのためのロシアのサイト:「TANK MASTER(※→資料10)」の「BT-7(1938年生産型)」写真集の中に「こんな写真」があることを、セータ☆氏に教えていただいた(嗚呼Kiitoksia!)。 なんと、ハバロフスクに現存するBT-7の車体の端から砲塔の端までの距離(約48mm)が示されているのである!(まったくご丁寧なことに、メジャーがあてがわれている! こういうドンピシャリと的を得た写真や情報を発掘するとき、セータ☆氏の検索能力は神業的である!(^^)・・・とはいえ、実は氏は自分の考証のために、「砲塔底部の台形に削られた窪み(クレーンがない場において砲塔を車体から外さなければならない際、鉄の棒やなんかを突っ込んでテコの原理で持ち上げる(!)ための凹みなのだそーだ)」の写真を探しておられたのである。たまたま(~~))


 この貴重な情報を得たワタシは、「写真」と同じように、砲塔の端から車体の端までの距離を計って見た。 左の写真でメジャーを支えているのは、我が細君である。 戦車や戦闘機を計測・検証する際は、良き伴侶が必要である(!)。

 BT-42に実際にメジャーを当てて見たところその結果
・・・「約46mm」
(写真をクリックすると拡大画面が飛び出します)
 もっともこの数字は「いびつな円形の物体に、いい加減なメジャーの当て方をした」という行為の結果なので、あくまで「参考的数値」であることを忘れてはならない(事実、鋳造履帯(特にソ連戦車)も厳密に言えば、「幅や長さが1枚1枚違う」と言ってもよいぐらいだ!)。 計測位置によってもそれは前後してくる(事実この計測において、「TANK MASTER」の「写真」とはメジャーを当てている位置が違っていたことを帰国後に気付いた! 「写真」をプリントアウトして現場に携帯して行くのを失念していたのだ・・・。(もっと背の高い定規を、例の「テコ入れの凹み」のほぼ中央部にあてがわねばならなかったのである。 これに関してはメジャーを支えていた我が細君にも、(残念ながら)責任は問えない(!))

 BT-7の「約48mm」と今回のBT-42の「約46mm」という計測結果の約2mmの誤差は、「いびつな物体AとA’が合同か否か」の確認作業において許容範囲内であると(勝手に)判断しているものの、これだけではせっかく実物を目の前にしていながら、「BT-42の砲塔=BT-7の砲塔の改造」という式が完全には成り立たない。 一般人は砲塔内部に入ることが許されないBT-42実車を目の前に、なんとも腑に落ちない気持ちが募るばかりだ。とはいえ「2.0mm前後の誤差」というのは、1/35スケールの模型では「0.0571428mm前後の誤差」である。作品においてまったく気にならない


・・・しかしその時突然、決定的とも言えるだろう証拠を見つけた!!


 BT-42を睨みつけながら、憮然とした表情を浮かべつつ徘徊していたとき、ふと砲塔後部の底を覗き上げて見てみたのである。 すると、
BT-7オリジナルの砲塔後部の輪郭を明らかにそこに見ることが出来たのである!(←「底」と「そこ」を引っ掛けようとしたワケでは・・・しょーもな)
 砲塔後部の構造物は、BT-7の砲塔底部に(またしても)継ぎ足されているようなのだ。 恐らくこの輪郭はBT-7オリジナルのものと判断して良いだろう。(ただしワタシはBT-7のこの部分を見たことがないので、ハッキリとした断言は出来かねる)
(写真をクリックすると拡大画面が飛び出します)

 ついでにBT-7砲塔の中央後寄りに溶接されている板(前後を繋ぎ合わせているにしては下端が切れている。なんのための板だろう)も、そのまま残されているのがはっきり見て取れる(BT-7砲塔の底板から上を「ぶった切ってある」のだろうか。ますます砲塔の中を見てみたくなる・・・)。

 これを見てワタシは、「やっぱりBT-42の砲塔は、BT-7の砲塔を改造したものである」という確認に一応の納得を得て、安堵の表情を再び浮かべることにしたのであるが・・・・・あとは、読者諸兄の(特に実際にパロラへ行って見てからの!)ご判断にお任せしたい・・・って、わざわざご判断いただかなくても、模型製作やその後の人生においてまったく支障はないことも明言しておきたい(!)。
 少なくとも、現存する「Ps.511-8(旧「R-708」)」号車の砲塔については、BT-7のそれを改造したものであるとして間違いはないと言えるだろう。



 しかしながら疑惑は残る。 全部で18両しか生産されなかったBT-42。 戦後も10両は生き残ったものの、残念ながら現存しているのは戦車博物館の1両のみである。 今に伝わる往時の写真(特に車輛登録番号が識別できる写真)の枚数も限られているのだが、そんな写真の中に1枚、1944年夏のヴィープリ近郊で撮影された「砲塔傾斜部に増加装甲を施したような」車輛の(ワリと有名な)写真がある。(→資料3ほか、小国AFVモデラーのバイブルとも言うべき「The Eastern Front 1941-1945」(by S.Zaloga他/1983 Arms&Armour)にも掲載)

 この車輛の登録番号は「Ps.511-19」。 ほぼ最後に製造された車輛である(生産もしくは登録の最後の18両目の車両には、「Ps.511-20」の番号が振られた)。 「suomen panssarivaunut 1917-1997」(→資料2)ではこの車輛の写真のキャプションに、「生産された最後のシリーズは砲塔の構造物形状が違うのだ」という旨の解説が付いている。
・・・・・しかしそれこそが「増加装甲(砲塔底部が写る、増加装甲のようには見えない写真がある)」や単なる「砲塔構造物形状の違い」ではなく、「(BT-7砲塔の改造ではない)まったく一から作った砲塔」であるとは考えられないだろうか(ターレットリングなどは流用したとしても)・・・などと写真をとくと見ながら考え始めてしまったのだが、もはや現存していない車輛のこと、もはや永遠の謎として脳内を周回させるままにしておこうか・・・。

 ・・・じゃあじゃあじゃあ、最後の登録車「Ps.511-20」号車の砲塔はどんな形状なのか? 「-19」号車と同じ砲塔形状なのか・・・・・?
 幸いにも「-20」号車の写真は唯一、「PIENOISMALLI lehti」04/1995号(→資料6)に見つけることが出来た。 しかしそれは・・・・・
 それは、貨車輸送中に背面上方から撮影された写真だった・・・・・砲塔前部はまるっきり見えない一葉! しかも機関室には兵士二人が座っており、更にはオートバイさえ積まれている。 まるですべてを隠そうとするかのように!(;o;)


※主な参考資料:
資料1)「月刊グランド・パワー」2002年12月号/(今は亡き)デルタ出版(第2特集「BT戦車」の項目)
資料2)「Suomalaiset Panssarivaunut 1918-1997」 E.Muikku&J.Purhonen/1998 APALI OY(芬軍AFVモデラーのバイブル)
資料3)「PORIGON」No.4/2004(遺棄されたPs.511-19号車の写真が3枚)
資料4)「世界の無名戦車」 斎木伸生/2002 アリアドネ出版(日本語で読めるBT-42の解説)
資料5)「流血の夏」 梅本弘/1999 大日本絵画(日本語で読めるBT-42のヴィープリ戦と写真)
資料6)「PIENOISMALLI lehti」04/1995(J.リンドグレン氏の模型作例(JSモデルの原型)と実車写真)
資料7)「月刊モデルグラフィックス」1987年1月号(vol.27)/大日本絵画(実車写真&解説とフェアリー企画の(!)キット作例)
資料8)「Laguksen Rynnäkkötykit Rynnäkkötykitpataljoona 1943-44」 E.Käkelä/1990 WSOY(芬軍突撃砲部隊に関する大著)
資料9)「Rynnäkkötykit Isänmaame Puolustajina」 L.Leppänen/2001 Julkaisuapu Oy(芬軍突撃砲部隊に関する中著)
資料10)「TANK MASTER」http://www.thetankmaster.com/(資料価値の高い写真が豊富)
資料11)「www.andreaslarka.net」http://www.andreaslarka.net/(フィンランドAFVファンのメッカ)
 この他にもBT-42の写真・記事が掲載された文献はあるが、重複する内容のものも多いので割愛した。
 (か 2004.0805)


戻る