ダグラスDC-2「DO-3"PIKKU-LASSI"号」

フィンランドに輸入された、合計3機のDC-2のうちの1機。

1936年米国サンタ・モニカ生まれ。チェコスロヴァキアとドイツで民間機として飛行。
1941年3月にフィンランドへ売られて「OH-LBD」と登録され、アエロOyの旅客機となった。
2ヵ月後には「OH-LDB」と改め、"Sisu(フィンランド魂)"の愛称で1941年からフィンランドの空を飛んでいた。
戦後の1949年には空軍へ売却され、「DO-3」のコードレターと"Pikku-Lassi"の愛称に変わったが、
1951年、離陸時のエンジントラブルで墜落。スクラップとして放出された。
かろうじて原型を留めていた胴体は、スクラップ業者に子供達の遊園具として買い取られた。
その後、1986年に航空博物館に持ち主の未亡人によって寄贈されたという。

空のため、子供のため・・・役目を終えた後は、その傷ついた身体をヴァンターの博物館に横たえ、
永遠の眠りについていた。
そして2011年以後・・・今はもう、その姿さえ見ることは出来なくなった。

ある「歴史的な機体」復活のためのレストア計画が進行し、
その身が「彼女」に捧げられたのだ。

その彼女の名は、「HANSSIN-JUKKA」・・・

そう・・・今は新生「ハンッシン・ユッカ」号の一部として活きているのだ!

以下の写真は、かつて航空博物館に展示中だった時のもので、
傷ついた痛々しい姿だったが、それでもなお慄然として、圧倒的な存在感を放っていた頃の記録である。
DC-2オリジナルの機体のパーツやトイレ(!)などが残っていたお陰で、
ハンッシン・ユッカへ献体され、移植手術が行われた!


ワタシがDO-3号機と初めて出会ったのは1996年のことだったが、
以下4枚は2002年5月に撮影した、ある種哀れな姿で余生を送っている姿。


ずいぶん長い間、ここでこうして眠っていた。
(手前の「AERO O/Y」塗装の垂直尾翼は、別のDC-3の残骸)


翼も脚も失って「寝たきり」の状態が、見ていて辛かった。
レストアするには、(資金的にも状態的にも機体の知名度的にも)厳しかったことだろう、


機首は(右舷側が特にひどく)潰れてはいたが、特徴的な機首の構造がユニークだった。


ここから2枚は、2004年5月の撮影分。
コクピット周辺はほぼ無傷と言って良かった。


左舷側前方のドア。
ここだけ見れば、今にも誰かが乗り降りしてきそうな状態だ。


2010年5月。
コクピットの下、左舷側に描かれていた「PIKKU-LASSI」の名前。
(「小さいラッシ」?3機のDC-2各々に空軍で付けられた愛称(DO-1が"Hanssin-Jukka"、DO-2が"Isoo-Antti")は
いずれも、どマイナーな地元の伝説のキャラ名だったりするので、由来がよくわからない)


「AERO」時代の塗装が退色し、胴体後部に「青い蛇の目」と「DO-3」の痕跡が浮かび上がっていた。


胴体には無数のリベットが並ぶ。下地塗料だろうか、あるいは時代ごとに違った塗装の跡だろうか、
赤色や青色の痕跡が残っていた。


窓からカメラのみを突っ込んで撮影した内の1枚が上手く撮れていた。
損失は激しく、往時を偲ばせるには難しいものの、機体内部の構造は理解できた。


なんか・・・悲しそうな顔だった!
飛ぶことはおろか、その在りし日の姿を復元されることもなく、ただ朽ち果てていくだけの存在かと、
2011年までに(この機体を見た)恐らく誰もが思っていたことだろう・・・しかし
まさかこの後、ハンシン・ユッカ号再生のための貴重なドナーになろうとは!


"PIKKU-LASSI"の身体は"HANSSIN-JUKKA"の一部となって、永遠に活き続けていくことになった。

完。
(めでたしめでたし、と言って良いだろう!)

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